令和の化学者・鷹司耀子の帝都転生 プラスチック素材で日本を救う
ストーリー ストーリー
鷹司耀子
鷹司耀子(たかつかさ ようこ)
令和の時代にプラスチック専門家として生きていたが、明治時代へと時間を遡って転生してしまう。史実には存在しない“鷹司家の末娘”として、現代の化学技術知識を用いて歴史に介入していく。
耀子の知識で生み出された発明品
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●プロローグ 雛鳳は糸を紡ぐ

一九〇一年。とある華族の邸宅にて、歴史がわずかに、しかし決定的に変わろうとしていた。
一人の幼い少女が、五本の小瓶を机に並べて、じっと睨みつけている。
その後ろでは少女の父親が、一体何をする気なのかと、期待と不安の入り混じった目で少女を見守っていた。
「……よし。まず、苛性ソーダを蒸留水に適量溶かして……」
やがて少女は意を決したのか、小瓶の一つを開けると、その中身を少しだけ蒸留水の入ったコップの中に入れてガラス棒でかき混ぜ始めた。
「この水酸化ナトリウム水溶液にヘキサメチレンジアミン(※1)を投入する……これが溶けたら、今度は塩化アジポイルをベンジンに溶かして……」
一つ一つ、作業手順を確かめるように、声に出しながら、少女は実験操作を進めていく。
「……このベンジンを水酸化ナトリウム水溶液の上にそっと注げば……」
先ほど〝塩化アジポイル(※2)〟を溶かしたベンジンを、〝水酸化ナトリウム〟と〝ヘキサメチレンジアミン〟を溶かした蒸留水の上に注いでいくと、コップの中の液は水と油のように二層に分かれた。
「……!」
コップの中に変化を認めた少女は、二層に分離した液のちょうど境界付近を箸でつまむと、それをゆっくり上に引き上げていく。すると、白い糸のようなものが境界面からするすると伸びていくではないか。
「……うまくいきましたよ、お父様……!」
少女はわっと叫びたい気持ちを必死にこらえて、不安と感動に打ち震えながら、コップから伸びた白い糸を後ろで見ていた父に示す。
「それは……じんけん(※3)か?」
「いいえお父様、これはポリアミドと呼ばれるものです……! 人絹レーヨンとは製法も、性質も、化学構造も全く違います……!」
少女が行っていたのはポリアミド──すなわちナイロンの合成実験だ。ナイロンはストッキングや釣り糸、自動車部品に即席麺の液体スープの袋といった様々な製品に利用されており、現代社会を回すうえで必要不可欠な材料の一つになっている。
この実験は、現代であれば高校までに化学の授業で習う知名度の高いものである。しかしここは明治の東京。本来ならナイロンはもちろん、プラスチックという単語すら発明されていない時代である。当然、少女の父親がナイロンの合成実験を知っているはずもなかった。
「そうか……いやしかし人工的に作り出した糸であるのは変わらないだろう? すごいな耀ようは。我が国はまだ人絹を作ることができないというのに」
「我が国どころか、世界のどこもこの物質は合成できていないはずです……! 世界初ですよ、世界初……!」
少女──耀子がナイロンを巻き取りながら興奮気味に答えた。
史実におけるナイロンの発明は一九三五年二月二八日のことである。さらに、耀子が今回の実験で使用した界面共重合(※4)法に至っては一九五八年七月三日に世界に公開されている合成法であるから、明らかに時代が合わない。
「世界初……世界初かあ」
「まだぴんときていませんねお父様。この糸は、日本を、世界を変えますよ」
「うーん、私は別に化学者ではないから、具体的にどう使えるのか見せてもらわないと何とも言えんな……」
耀子の父──たかつかさひろみち公爵は、娘が何をやらかしたのかよくわかっていない様子である。だが、ふうっとため息をつくと、娘の方に向き直り、彼女の期待通りの言葉を発した。
「だが、子供を信じてやるのが親の務めというもの。私はその糸を帝国大学あたりに持っていって、新材料であることを立証してもらえばいいわけだな?」
「そうしていただけると大変助かります。特許を取りたいので、まだ公には知らせないでくださいね」
「分かった。何とか伝手をたどってみるとするよ。私はどうやってまともに取り合ってもらうか考えておくから、その間に耀子はその糸をできるだけ多く巻き取って私に渡してくれ」
「わかりました。頑張ります!」
耀子は父の言葉に元気よく答えると、ナイロンを巻き取る速度を上げる。父が部屋から出ていったことを確認すると、齢四つの公爵令嬢は、ぶっつけ本番で行った66ナイロン(※5)の合成実験が、無事にうまくいったことに安堵し、深いため息をついた。
「よかったぁ~、ここを失敗してたら、多分日露戦争への介入はできなかったと思うんだよねぇ~」
のんびりとナイロンを巻き取りながら、耀子はそんなことを口にする。
「このくらいすれば、お父様も私の妄言? 誇大妄想? まあ実はどっちでもないんだけど、そういったものをもっと聞いてくれるようになるはず。このころの東大の先生が誰だか知らないけど、きっと仰天するだろうなあ。それは水と空気と石炭から作られ、鉄よりも強く、蜘蛛の糸より細い、だっけ?」
さすがに史実の売り文句は誇大広告であるが、66ナイロンの優れている点はその性能である。樹脂としては高い耐熱性、強度、気密性ガスバリア(※6)を誇り、繊維にしても良し(※7)、塊で用いても良しな現代社会では欠かせない材料の一つだ。ナイロンストッキングは極めて身近なナイロン製品であるし、耐熱性を生かして自動車のエンジン部品に用いることもできる他、変わったところでは、強度とガスバリア性を生かしてインスタントラーメンの液体スープの袋などもナイロン系の樹脂で作られることがある。
「繊維として有用なのも今の日本には都合がいいよね。このころの日本は生糸を使った軽工業が主力だから、他の樹脂製品を作るよりはまだノウハウや機材が流用しやすいもの」
細い繊維はすぐに損傷してしまう。ストッキングなどにナイロンがよく使われるのは、ナイロンの引張強度が絹より五割程度高いため、細い糸にしても切れにくいからだ。
「何より、界面重合法で合成できるのが強すぎる。反応条件が激しい連鎖重合(※8)とかが必要な樹脂だったらこんなに早く発明できなかったもんね。自分でやっといてなんだけどチートだわこんなの」
ただし、66ナイロンにもそれなりに弱点があり、水を吸って性能が下がりやすいとか、塩類(※9)に弱いとか、反り変形が大きいとかがあって、万能無敵の材料というわけではない。とはいえ、彼女はそのあたりもよくわかっている。なんせ、今より遥か百年以上未来の前世において、散々職場で触ってきていたのだから。
「しかしまあ、令和で樹脂屋をやってた私が、どうして明治の公爵令嬢になっちゃったのかね……」
耀子はガラス棒を回しながら、科学で説明がつかない超常現象にため息をついた。
  • ※1 ヘキサメチレンジアミン 吸湿性がある白色の固体。アミン系の物質なので臭い。 ヘキサメチレンジアミン
  • ※2 塩化アジポイル アジピン酸ジクロリドのこと。反応性の高い無色の液体。 ヘキサメチレンジアミン
  • ※3 人絹 人造絹糸。レーヨンの事。パルプや屑綿などを薬液に溶かし、その溶液を水中などに細孔から押し出して作った半合成繊維。
  • ※4 重合 分子同士をつなげて、長大な分子鎖を作る化学反応。
  • ※5 66ナイロン ナイロンを作ることができる原料は複数存在し、どの原料から合成したかによってその性質は大きく変わる。このため、合成に使用した原料がわかるよう、語頭か語尾に数字をつけて呼ぶことがある。
  • ※6 ガスバリア性 ガスの通りにくさのこと。ゴムやプラスチックは気体を完全に閉じ込めることができず、ほんの少しずつ外に漏らしてしまう。ヘリウム風船が、穴が開いていないのに少しずつしぼんでいくのはガスバリア性の不足が原因。
  • ※7 繊維にしても良し プラスチックを糸のように細長くしたものを、合成繊維や人造繊維などと呼ぶ。
  • ※8 連鎖重合 分子鎖の末端が非常に化学反応を起こしやすい状態になり、連鎖的に重合が進行する反応。
  • ※9 塩類 この場合は食塩に限らず、酸とアルカリの中和反応によって合成される固体のこと。
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