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						 一人の男子生徒が石に座り、ぼんやりと池を眺めている。
						「ふふ。ここだけ別世界みたいだ。はぁ。癒されるなぁ」
						 そんな独り言が聞こえる。
						 確かにこの場所は学園の中庭にあるにも関わらず、静かな様相を呈している。木々で視界が遮られるが、木漏れ日はあちらこちらからしっかり入ってくる場所だ。
						 男子生徒は鼻歌まじりに池の様子を眺める。
						 カエルが時々跳ねてポチャンと音が響く。風で葉の擦れる音がする。
						 昼前の最後の授業が終わって談笑する生徒の声が遠い世界の様に聞こえる。
						 穏やかな時間がずっと続くかと思われた。
						「お前のような女が婚約者であることは、私の人生の最大の汚点だ!」
						 なんだか物騒な発言の後に同意するような声がチラホラ上がる。
						「ん?」
						 男子生徒は首をかしげた。
						「そのように大声を出さないでくださいませ。きちんと聞こえておりますわ」
						「んん?」
						 男子生徒は仕方なく身を乗り出し、木々の間から中庭の様子を窺った。
						「ちっ。こんな時でも生意気な!」
						 ギャーギャー喚いている六人の集団とそれに対峙する四人の集団。
						 男子生徒は何か行動を起こすのかと思いきや、うるさそうに顔を少ししかめただけで元通り石に腰かけ、喧騒に背を向けた。
						「やっぱりこちらにいらっしゃったんですね。ランチを食べないと昼休みが終わりますよ」
						 今度は背の高い男子生徒が木々の間から姿を現した。
						「あと、なんだかマズイことになりそうなので、アレをなんとかしてください」
						 背の高い男子生徒の視線は喚いている集団に向けられている。
						「えー」
						「えーじゃありませんよ。無駄に身分の高い生徒達が集団の中にいるんですから。あなたくらいしか止められないじゃないですか」
						「えぇー」
						「えぇーでもありません。ほら、行った行った」
						「出て行っても火に油を注ぐだけだろう。それに何とかなるさ」
						「そんな希望的観測は要りません」
						「いや、そうではなく。あの足音が聞こえるだろう? 兄の采配かな」
						 全く緊迫感のない声で男子生徒が言った何秒か後に騎士団が中庭に現れた。
						 二人の男子生徒はそっと中庭の様子を窺いながら小声で話す。
						「そういえば、一人足りなくないか?」
						「誰が足りないのですか?」
						 喚いていた集団に向かって騎士が二言三言喋ると、分かりやすく彼らの表情が変わった。
						「六人と四人だったからさ。誰の婚約者がいなかったんだろうと思ってね」
						「ええっと、あの女と五人の令息ですから……そうですね、対峙していた集団には一人令嬢がいませんでしたね。呼び出したわけでもなく、昼休みに出くわしてあんなことになったのでしょう。はぁ……公衆の面前で人を貶おとしめようとするなんて……なんて嘆かわしい」
						「あーあー。もうちょっとで思い出しそう。あ、分かった。ザカリー・キャンベルの婚約者がいなかったんだ。あの大人しそうな子。兄の側近の妹だよ」
						「あぁ、ハウスブルク伯爵家のご令嬢ですね……そうでしたか。私はクラスが違うので接点があまりないのですが……まぁとにかくランチに行きましょう。昼休みが終わってしまいます」
						「真面目だねぇ。あんなことがあったんだし、多分午後の授業は中止になるよ」
						 男子生徒の言葉通り、午後の授業は中止になった。
						 ***
						 私は心底ウンザリしていた。
						 なぜなら自分の婚約者が目の前で罵ってくるからだ。
						 ここのところべったり一緒にいる女子生徒と以前からの取り巻きを侍らせて。しかもよりによって他の生徒達の目も多い中庭で。
						 授業が終わって食堂に向かっていただけなのだが、無視するわけにもいかず、どうにかうまくこの場を収めないといけない。
						「今はお昼休みですからまた時間を改めてお話できませんか?」
						「そうやってお前は逃げるじゃないか!」
						 いや、逃げてませんけれども。
						 あ、まずい。彼の取り巻きの中に婚約者がいるブルックリン様が顔を真っ赤にして前に出ようとするのを慌てて手で制する。この方は手が出そうで怖いのよ。それに何を口走るか分からないし。
						「逃げてはおりませんわ。放課後にでもきちんと時間を取ってお話できればと思っております」
						 悪意のある視線にひるまず、自分の婚約者と女子生徒と取り巻き達を見回す。
						 婚約者はルルという女子生徒の腰にしっかり手を回していたが、感情が高ぶったのか手を離し、私を指差す。
						「さすがにもう我慢できませんわ……」
						 今度は、同じく彼の取り巻きの中に婚約者がいるフライア様が出て行こうとするので押しとどめる。我慢できないって何をするつもりだろうか。確かに内容は完全な言いがかりなのだが。
						 そういえば、ここまで人数が揃っているが……この話をするにはあと一人。足りない。
						 フライア様を後ろに下がらせながらちらりと中庭全体に目を向ける。
						 すると途端に好奇や同情の視線が突き刺さった。ざっくり辺りに目を走らせたが、探している肝心の女子生徒は見当たらない。
						「おい! 無視をするな!」
						 ここで「うるさい!」と叫べたらどんなに楽だろう。ため息を吐きたくなりながら、視線を婚約者に戻す。
						 ルルの腰は私の婚約者ではなく、取り巻きの一人ザカリー・キャンベルが抱いていた。婚約者のいる侯爵家の令息がすることではない。
						 彼の視線は私ではなく、どこか違う所を警戒するように見ている。
						「私が彼女を虐めたというお話でございますか。それは無理がございます。なぜなら放課後は生徒会のお仕事をしておりますから」
						 本当はあなたの仕事だけど、あなたがやらないから仕方なく私や他の生徒会役員の方々がやっております。
						 ザカリー・キャンベルの視線の先を追うと、探していた女子生徒がいた。彼女、エリーゼ様は何が起こっているのか分からないといった様子でこちらを見ていたが、ザカリー・キャンベルと目が合ったのかすぐに俯いてしまった。
						 エリーゼ様は控え目で大人しい方だ。あのように自分の婚約者が他の女性を大事そうにする様子を目の前で見せつけられては……彼女は傷つくだろう。
						 私と一緒にいる集団には、先ほどのブルックリン様やフライア様といった気の強い方々がいる。ある意味、エリーゼ様は彼らと真っ向から対峙するこの集団の中にいなくて良かっただろう。
						きっと彼女には耐えられない。とにかく、早くこの場をなんとか収めようと私は集中する。
						「取り巻き達にやらせたんだろう」
						「取り巻きとは一体どなたのことでしょうか? 私には取り巻きと呼ばれる方々はおりません」
						 そこまで言ってから、婚約者の後ろに現れた影に気付いた。
						 他の生徒達も気付いたようで、婚約者の声しか響いていなかった中庭に驚きの声が上がる。
						「なんだ? 何かおかしなことでも……」
						 婚約者は振り返って異常に気が付いた。取り巻き達も同様だ。
						 学園にいるはずのない王宮の騎士達がすぐそこまで来ていた。
						 あっという間に騎士達は距離を詰め、婚約者達を取り囲んだ。
						「…………王太子殿下の…………ご同行を…………」
						 うまく聞き取れないが騎士が婚約者に声をかけると、婚約者は分かりやすく顔色を変えた。彼が動揺するということは彼より上の人物が動いたということだ。
						 もう二言三言、騎士が声をかけると彼が唇を震わせてうなだれるのが見えた。ルルは不思議そうな顔で婚約者やザカリー・キャンベルの制服の袖を引っ張っている。その動きに合わせて、彼女が腕に付けているブレスレットがシャラシャラ揺れた。
						「では、こちらへ」
						 騎士が誘導すると、婚約者は力なく歩き出す。最初に私に言いがかりをつけてきた自信満々の姿とは異なる。
						 婚約者につられて取り巻き達も困惑しながら続く。婚約者はルルに構う余裕はない様だった。
						 取り巻き達の中でも高位の令息二人が、ルルの手を取って歩き出す。騎士団の前でもそんなことができるのはある意味、称賛に値するだろう。
						 フライア様はそんな態度を取る自分の婚約者である男子生徒を睨んでいる。
						 私は離れたところにいるエリーゼ様にまた目をやった。
						 彼女は呆然とした表情をしていた。
						 無理もない。ただ、教科書を持つ手が小刻みに震えていた。爪は力を込めて握りしめているせいか、白い。
						 何となく彼女の気持ちが分かる。
						 でも、私は彼女のような気持ちをもう婚約者に持つことはない。
						 傷つきすぎて悲鳴を上げた鈍い心の痛みを我慢するようなことは。もう決してない。
						 私はゆっくり息を吐いて背筋をよりピンと伸ばす。
						 騎士がこちらに礼をして去っていく。
						 遠ざかる背中を眺めながら父に何と報告しようかと考えていた。
					
 
					
						発売記念SS  出会いはいつも突然に
						
						 第三王子の側にいなくて本当に良かった。まさか第三王子が衆目のある学園の中庭であのように女性達を貶めようとするとは。他にもいろいろとやらかしていたが。ゼインは第三王子の側に侍ることを選択しなかった過去の自分を思い出し、褒めたくなった。大いなる自画自賛である。今は第二王子であるアシェル殿下の側にいるが、最初は年も同じということで第三王子との顔合わせがあったのだ。そして顔合わせ当日、会ってビビッときた。コイツとは絶対に合わない、と。ゼインには兄と姉二人がいる。姉達からは優雅に笑いながらテーブルの下では蹴り合いのお茶会の様子を。兄からは女性顔負けの陰険な男性同士の王宮での足の引っ張り合いを。小さい頃からたっぷり聞かされているのだ。何が楽しくて、甘やかされた鼻たれの末っ子ワガママ王子のお守なんぞしないといけないのか。年齢は同じでもゼインとは精神年齢が違うのだ。この判断は父親には良い顔をされなかったが、母と姉達に熱烈に支持された。そして現在に至る。第三王子と側に侍っていた者達の評価は地に落ちている。その一方で、第二王子であるアシェル殿下の株は急上昇した。第三王子のお守をゼインがしていたら、ゼインの評価も今頃地べたを這っていたかもしれない。泥船に乗っていなくて本当に良かった。
						 ただ、評価が上がると面倒事も起きる。目の前のこれだ。
						 熱心に一方的に喋る伯爵と、退屈そうに一応聞いているフリをするアシェル殿下。会話内容は要約すると「うちの娘を殿下の婚約者にどうですか」だ。ちなみに伯爵の後ろで伯爵令嬢は青い顔で首を横に必死で振っている。娘はマトモなようだ。この伯爵令嬢には婚約者がいるのだ。こんな風に、現在の婚約を解消して王家と縁続きになりたい輩はワラワラ湧いている。薄情なものだ。これまでは第三王子に媚びを売りまくっていたのに掌返しがすごい。
						 さて、この不毛な会話をどのあたりで切り上げようか。あまり早くこの手の会話を間に入って切り上げていると、目撃していた王宮の使用人達の間で「ゼイン・ブロワはアシェル殿下のことが好きなのでは?」なんていう男色の噂を流されたことがある。そうなるとなぜか期待の目で見てくる侍女達が増えるし、騎士団に稽古に行くと「応援してるぞ」「俺とはどうだ?」などと変な騎士に絡まれるし大変なんだよな……。
						「あ、ナディア嬢。もう話し合いは終わったの?」
						「アシェル殿下、ごきげんよう。はい、先ほど終わりました」
						 ゼインがタイミングを悩んでいると救世主が現れた。優雅な足さばきかつ堂々たるオーラを背負って現れたのは、第三王子の元婚約者ナディア・バイロン公爵令嬢だ。婚約解消の話し合い(要はお金のお話だ)で王宮に来ていたのだ。彼女は伯爵にも挨拶をすると、伯爵令嬢と会話を始めた。
						「そろそろ学園が再開ね」
						「はい。学園で早くお会いしたいです」
						「婚約者の方もお元気?」
						「まぁ! 彼をご存じだったんですね、元気にしております」
						「だって学園で仲良くランチをしているじゃない。羨ましいわ」
						 わざと伯爵に聞こえる様に婚約者の話を振ったな、この人。アシェル殿下も「バイロン嬢」と呼ばずに、人前であえて「ナディア嬢」なんて親し気に呼んだからどっちもどっちか。伯爵は気まずそうにしながら会話を切り上げて娘とそそくさ帰って行った。娘は感謝するようにペコペコ頭を下げている。
						「急に人気が出て殿下も大変ですわね」
						「君ほどじゃないよ。結婚の申し込みが山の様に来ているんだろう」
						 ナディア嬢はご機嫌だ。ゼインは小さい頃からナディア嬢と面識がある。傍目で分からないくらいだがナディア嬢がご機嫌なことは何となく分かった。
						「ゼン、どうかしたのか」
						 アシェル殿下が話を振ってくる。
						「ナディア嬢がお元気そうで何よりです。他のご令嬢方がどうされているかと思いまして」
						 さすがに、第三王子と婚約解消してご機嫌ですねとは言えない。気になっていた騒動後の他のご令嬢方の様子を聞いてみる。
						「それは私としても気になるね」
						 殿下がゼインといる時の一人称は「僕」だ。ナディア嬢のように幼い頃から面識があっても一人称は「私」なのか。意外に思いながらナディア嬢の返事を待つ。
						「ブルックリン様は婚約者と仲直りされて結婚するそうですわ。これから忙しくなりそうですわね。クロエ様とフライア様には昨日お会いしましたわ。クロエ様はお菓子を食べる量が増えておられましたが、笑っておられたので大丈夫かと。婚約は解消の方向でしょうね。フライア様は婚約者に呆れかえっておられました」
						 ブルックリン嬢もフライア嬢も気が強いからな……傷ついても反撃だけはしっかりしそうなお二人だ。クロエ嬢は二人に比べて気が弱そうではあるが、強かな印象も受けるので大丈夫だろう。そういえば、クロエ嬢は何もないところで偶に躓いていて、助けるとキラキラした目で見られるんだが、あれって男色の噂のせいか? ドジなだけか?
						「クロエ嬢には王都三番街の『バーサおばさんの家』のプリンがおすすめだと伝えてくれ。ゼンと行った店だが美味しかった。茶色の屋根の店だ」
						 殿下、その言い方だとデートだとかって一部の侍女達が喜びそうなのでやめてください。
						「ふふ、分かりました」
						「あと一人は?」
						「エリーゼ様ですわね。彼女には明日会いに行く予定ですわ」
						「そうか。そんなに交流があったのか?」
						 あと一人はエリーゼ嬢か……大人しくて暗そうなご令嬢。彼女が一番心配だな。気が弱くて周囲に流されそうだし、強かな印象もない。
						「これのお誘いに行くのですわ。殿下とゼイン様にもお渡ししようと思っていましたの。どうぞ」
						 凝った装飾が施された封筒をそれぞれに渡される。
						「仮面舞踏会の招待状です。お二人とも婚約者はいらっしゃらないですし、ぜひおいでください。もしかしたら素敵な出会いがあるかもしれません」
						「へぇ、仮面舞踏会とは面白いな」
						 アシェル殿下は面白がっている。いや、これ王家からの賠償金で開催されるイベントですから。
						「では、舞踏会の日にお会いできるのを楽しみにしております」
						 見事な礼を執ってナディア嬢は優雅に去っていく。いつ見ても彼女の所作は優雅だ。現に通りかかった人々が見惚れている。
						「ゼンも仮面舞踏会に行くだろう?」
						 ナディア嬢の後ろ姿を全く見ることもなく殿下は言う。この人はあんなに完璧な令嬢が目の前にいても普段となんら変わらない。照れたり、自分を良く見せようとしたりしない。本当に爬虫類と両生類にしか興味がないのだ。あとはスイーツ。スイーツなら外国の物でも何でもいい。美味しかったらヘビやトカゲにその名前を付けている。第三王子の婚約はなくなったが、この人は婚約をどうするつもりだろうか。この辺りはどこがとは言わないが、真っ黒な王太子殿下が考えているのだろう。
						この時はまさか仮面舞踏会であんなことになるとは思ってもいないゼインだった。そう、ゼインは知らなかった。出会いはいつも突然やってくることを。